takshigaempのブログ

救急医!志賀隆 Takashi Shiga MD MPH

米国救急専門医です! たらい回しをなくしたい!ヘルスリテラシー・情報格差の改善を!元気で個性的な人材を育成をしたい! ※発言・文章は個人のもので組織のものではありません

米国臨床留学への道 (過去に書いたものを転載 ^^)

「難しいと思う。他の道を考えては?」  

このように多くの友人、そして日本人・米国人の指導医にいわれたコネなしでの私の救急医学のレジデンシーへの挑戦は平坦な道ではありませんでした。しかし、計画的に挑めば決して不可能でないことを後輩の先生方に伝えることができればと思ってこの文章を書かせていただきます。


私は、帰国子女の友の語学力への憧れを持ちつつ大学に入学し、赤津晴子先生の『アメリカの医学教育─アイビーリーグ医学部日記─』(日本評論社)を読んで以来、海外で教育を受けてみたいと思うようになりました。そんな中、医学教育振興財団の派遣で英国バーミンガムの家庭医の診療所を見学。大学で専門科を回っていた私にとって、老若男女多種多様な問題をごく自然に診療する家庭医という存在がとても新鮮で魅力的に写りました。その年の夏にはまた横須賀米国海軍病院を見学、オープンな雰囲気と優秀なインターンに憧れ、秋に受験しました。結果は不合格。卒後研修は、研修医の受け入れ実績があり雰囲気のいいところ、救命センターや総合内科があり夜間に救急外来での研修ができる病院、という観点から目黒の東京医療センターにて行いました。山あり谷ありの研修でしたが、素晴らしい先輩・同僚、熱心な指導医に囲まれ、とても貴重な経験をさせていただきました。中でも救急外来での経験は刺激的で、様々な問題に限られた資源で対応するマルチタスクトリアージなどに興味を持つようになりました。福井大学の寺沢秀一先生の『研修医当直御法度』(三輪書店)は何度も読み返し、「この人のように救急外来で働きたい」と強く思いました。熱しやすい性格もあり、いきなり福井大学に電話をかけて、関東にいらっしゃるという寺沢先生にお目にかかりました。

研修2年目の夏から秋にかけて、就職活動を行いました。今回落ちたら渡米すること自体を諦めようと思っていた米国海軍病院の受験では、横須賀は書類選考で落ちたものの、在沖縄米国海軍病院に合格することができました。海軍病院の同僚は、舞鶴市民病院・沖縄中部病院・武蔵野赤十字病院で研修を終えた者のほか、やる気溢れた新卒の2人でした。内科・外科・小児科・産婦人科・救急・精神科を回り英語の上達と米国式の医療に慣れる1年間でした。毎朝のモーニングレポート(インターンが症例報告を1日1例)から始まる英語づけの日々は、沖縄の青い空と海という素晴らしい環境の中とてもよい経験となりました。海軍病院在籍中には野口医学研究所の短期留学生派遣の面接を受け渡米された偉大な先輩から大変貴重なお話を聞くことができました。USMLEの準備もまだもまだ不十分だった私は、同期と励ましあいつUSMLEの問題集をインターネットで解く毎日でした。

海軍病院でのインターンを終えたものの、USMLEの勉強は思うようにはかどっていませんでした。私としては、渡米に配慮してもらえ、かつ自身の勉強になるところを探したいと思っていたところ、浦添総合病院からお誘いをいただくことができました。救急・集中治療・麻酔を中心に2年間を過ごしました。救急部長の井上徹英先生のもと、岩野歩先生、斎藤学先生という素晴らしい指導医に恵まれ、臨床医として成長させていただきました。新たに臨床研修制度をスタートさせ、ヘリコプターによる救急搬送を始めるなど常に挑戦的な取り組みを行っていた民間病院で働け、とても勉強になりました。また、ICUを中心とした入院診療をしっかりと経験できたことも、大きな糧となりました。充実した毎日に、渡米するか迷った時期もありました。しかし、急性期の多様な外来中心の診療を米国の系統だった教育から習得し、日本で北米式の救急医学を推進したいとの思いで、やはり米国留学への道を進むことにしました。

USMLEの試験は、その頃Step 1とStep 2CSまでは合格していました。麻酔科研修中、毎日眠気と戦い、ぼやきながらも半年間がんばってStep2 CKをクリア、2005年の4月に念願のECFMG certificateを取得しました。私の勉強法は大まかにいって日本の国家試験と一緒です。問題をやって参考書に書き込むことの繰り返しでした。Step 1のときはFirst Aidという参考書、Step 2はPrescription for the Boardsという参考書を使いKaplan、USMLE worldという2社の問題集をインターネットで解きました。救急医学のプログラムは外国人の割合が1%(内科は18%)と極端に低いため、多くの人から「コネでもないかぎり正攻法では難しい」といわれましたが、そういわれると「何とかしてみせる」と思ってしまい、正攻法で挑戦しました。USMLEの高得点・著名な米国人救急医からの推薦状・米国式医療での診療経験・日米の学会での発表などの活動・海軍病院でのベストインターン浦添総合病院でのリーダーシップ……など選考上考慮されると思われることを達成し、プログラムに応募しました。応募したのは、過去に日本人医師を面接したことがある、自身が見学に行ったことがある、外国人を採用したプログラムを中心にしました。面接が近づくと、海軍病院時代の指導医と模擬面接を重ね、岸本暢将先生の『アメリカ臨床留学大作戦─英語面接を乗り越えた在米研修医による合格体験記と留学に役立つ情報─』(羊土社)を隅々まで読んで想定質問解答を作り、全米7ヵ所を渡り歩きました。また、面接前にはその施設の救急外来を必ず見学するようにし、そこで働くレジデントの様子を見るようにしました。結局、その圧倒的な設備と教育環境の充実、そしてプログラムディレクターの人間性によい印象を受けて、メイヨークリニックをランクリストの一番にしました。2006年3月、ミネアポリスの救急医日比野誠恵先生のお宅でスクランブルに備えていた私は、メイヨーにマッチしたことを知ったのでした。

メイヨークリニック救急部の規模は日本のそれとは桁外れに大きいものです。レベル1外傷センターで、50 床と3台のヘリコプターで年間8-9万人の患者を診療する組織です。指導医30名以上、看護師は約100名以上を擁します。救急医学のレジデンシーは1999年からと新しいのですが、多くの特徴的な点を有します。クリニックの基幹病院は2つあります。セントメアリー病院とメソジスト病院です。どちらも1000床規模の巨大な病院ですが(平均在院日数が極端に短いため同じ1000床でも規模が日本より大きいものと考えられます)、救急部を持つのはセントメアリー病院のみです。救急部は50床あり、そのうち常に除細動器・モニター・心肺蘇生キットが搭載されたベッドのある多発外傷や重症患者のためのcriticalエリアのベッドが12床、腹痛や整形外科的問題などの急性疾患に対応するAcuteエリアのベッドが10床ずつ2つ、小児救急外来が10床、経過観察エリアが10床ですべてをあわせると50床となる計算です。経過観察エリアを除き、それぞれのエリアで指導医が1名・レジデントが2-3名常時診療に当たっています。また医師助手(physician assistant)が風邪や単純な裂創などを診るfast trackというエリアが上記に加えて8床あります。日本と違いICUと救急部の区別は明確で、上記の救急部50プラス8床とは別に内科・一般外科・術後混合・循環器・心臓外科・血液内科 / 移植・神経・小児ごとのICUが計200床あります。

日本では一つの病院のある科の人気がある場合、時にその施設での十分な研修機会という視点よりも応募医師個人の希望が尊重されることもあります。また、(学会が主宰する)専門医認定においても、専門医研修のカリキュラムがきちんと整えられている施設のほうが少なく、それゆえどうしても全国的に卒後研修の質を管理することが難しかったり、受験資格に偏りが見られるといった指摘がなされていました。米国で救急医学のレジデンシープログラムを立ち上げる(研修指定施設になる)には、ACGME(Accreditation Council for Graduate medical education;卒後医学研修認定委員会)という第三者機の認定が必要で、その条件は実に多岐にわたります。抜粋しますと、①年間3万人以上の救急外来の受診がある施設でなればならないこと、②米国救急専門医が指導医としていること、③小児救急の占める割合が16%以上もしくは3年間の研修期間のうち小児救急に関した研修が4ヵ月以上行われること、④重症の内科・外傷患者が最低1200名もしくは3%いること、などと細かく定められています。ここでの一番のポイントは、専門医になるための十分なトレーニングの確保がはかられているという点です。内科系、外科系に関係なく、レジデンシー修了後に専門医としてやっているだけの経験が─症例数において、または過剰な人員を原因に─積めないと予想されるならば、ACGME からレジデンシープログラムの許可はおりません。

米国救急医学教育の中で最も大事なのがベッドサイドでの教育です。病歴・身体所見から鑑別診断をつけ検査を行っていくこと自体、日本と米国で変わりはないのですが、鑑別診断にどれくらい重きを置くかという点において、日本の卒後教育にはないものをこちらで経験しています。症例へのアプローチの過程で思いつかない診断を、血液検査や画像にて拾い上げることはなかなか難しいことと思います。こちらでは、バイタルサインを確認した後に1年目のレジデントが患者を診察すると、その後すぐに指導医もしくは3年目レジデントと鑑別診断を行い、「どのような検査や治療が必要か」議論をします。例外なくすべての患者について議論を行っていきます。3年間、何千人という救急患者を相手に、臨床のプロとしての手法を学ぶわけです。それを可能にするのは経験豊富な百戦錬磨の30名の救急指導医陣、十分なコメディカルなどを含めた人的資源です。

米国の救急医学のプログラムのほとんどが、週に1日5時間という枠で講義を行っています。経験豊かな指導医の講義、米国各地から招かれる著名な救急医たちの招待講演はとても内容が濃いものです。レジデンシー期間を通じて行うことで、広い分野の知識を獲得することを目指しています。メイヨーでは、そのうちの25%を座学から参加型の教育であるシミュレーションに移行しています。講義は、2-3例の模擬患者、もしくはシミュレーション人形を使って進められます。インターンが考え行ったことに対して、2年目もしくは3年目のレジデントがフォローするというものです。午前中だけで3回の講義を行います。こうして3年間にわたり、外傷や蘇生はもちろんのこと、様々な主訴を学んでいきます。中には社会的に難しい状況の患者や難しい患者・家族なども織り込まれており、コミュニケーション・チームワークの教育を行えるような工夫も凝らされています。

私が研修先施設を選ぶにあたって大事にしたことの1つに、「プログラムのディレクターがどのような人であるか」という事柄があります。彼・彼女が与える影響はそれほどに甚大であるからです。私どもの施設のディレクターは、メリーランド大学にて研修をされた女性医師です。面接・見学を含めて全米の多種多様なプログラムを10近く見た私の率直な感想として、ベストの救急医と申し上げていいでしょう、彼女の素晴らしさは、その「救急医として」必要な医学的知識・鑑別診断の広さ、そして手技の範囲などを実に的確に把握している点にあります。また、2人の副ディレクターとともに、どのように研修医を教えたらよいのか、絶えず気を配ってもいます。月に1度おこなわれているプログラムディレクターによる講義では、毎回短い症例検討が何例かなされますが、それは彼女のキャリアを物語る珠玉の内容です。救急医として学ぶべきコモンな症例をはじめとし、稀でも致死的な症例までがよくカバーされています。彼女の一番のよさは、やはりベッドサイドで同じシフトに入っているときです。臨床医として優秀なだけでなく、医師患者関係の構築・社会的に複雑な状況の解決などの教育にも実に優れています。「憧れるような医師に会えることが素晴らしい教育」なのだと感じさせてくれる指導医です。

1960年代のモータリゼーションを機に始まった日本の救急医療は救命救急センターを中心に発展し、高いレベルにあります。しかし、救急医療に問題がないかというとそうではないようです。妊婦の搬送に見られるようなたらい回しの問題など、救急医療を取り巻く状況は厳しさを増しています。「医療崩壊」を叫ぶ声すらあります。内科・外科を問わず全科にまたがった医学的問題にひとまず対応できる「ERで働く」救急医の養成が求められていると思います。日本救急医学会でもERで働く救急医の必要性は認識されており、ER検討特別委員会が設置されています。今こそ、北米で救急医学の研修を積んだ医師が求められているのです。英語の壁であったり、文化の壁であったり、もどかしいことは色々とありますが、同じ志を持つ後輩が米国で挑戦することを願ってやみません。支えてくれる妻・米国で生まれた息子と私に色々と教えてくださった恩師・先輩の先生方と、支えてくれた家族に感謝します。日本の救急医療の更なる発展を願って。